コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.60

松井薫の「隠居のたわごと」vol.60

隠居のたわごと

保温ポットか虫かごか

これから夏のシーズンに入ると、蚊の飛ぶ季節になる。眠りに入ろうとする瞬間に 耳元で「ブ~ン」とやられるだけでも、腹の立つものだ。

今よりももっと沼地や蚊の 発生する水面が多かった江戸時代の人たちも蚊には悩まされていた。

滋賀県の守山は湿地が多く蚊の名所として知られていた。蚊が人の形にまでなる、という伝説もあり 、そののち狂言の「蚊相撲」(人間の形をした蚊が、相撲を取ろうと人間に近づき、 血を吸おうとしたが、正体がばれて扇であおいで追い払われる)というのができたりした。近くの近江八幡にあった西川家の二代目が色に染めたと紅布の縁取りの近江蚊 帳を発明して売り出したところ、大ヒット。江戸でも商売を広げ、江戸西川家では美 声の2人組で「蚊帳あ~、萌葱の蚊帳あ~」と一声半町で売り歩いたらしい。半町といえば54mぐらいなので、一声を40秒はのばして売り歩いていた。(このころは 息の長く続くのを、見事だ、と評価していた)派手な格好と長く続く美声が相まって 、江戸中に近江蚊帳は広まった。当時の浮世絵にも蚊帳を使っている様子が描かれている。昭和30年代ごろまでは、我々の生活にも蚊帳はあったが、毎日寝るときにな ると片付けて布団を敷き、蚊帳を広げて吊り、朝になれば蚊帳を外してしまい、布団を上げて部屋として使う、という繰り返しが高度成長期の忙しさの中で邪魔くさがられ、次第に除虫菊を使った蚊取り線香に変わっていった。

今では「蚊がいなくなるス プレー」が全盛だ。蚊取り線香にしろ、スプレーにしろ、蚊を殺そうとするわけだが 、蚊帳のいいところは、自分たちの周りの蚊を全滅させて人間を保護するのではなく 、蚊のいる環境の中で、眠る場所だけを網で囲ってその中で安心して眠るという姿勢だ。

いやなものは力づくでやっつければいいんだ、ではなくて、お互いの許容範囲で 妥協してともに生活しよう、という平和な方法は捨てがたいものがある 。

(2025.5.19)