コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.30

松井薫の「隠居のたわごと」vol.30

隠居のたわごと

どこの土地にも物語はある

 日本に人間が住むようになってから長い長い時間がたっている。その間に土地の歴史にまつわる物語が、どこの土地にでも残っている。特に京都は都があったところだけに、歴史の教科書に書いてあるような人物の足跡があちこちにある。その歴史はいくさであったり、商売繁盛の話であったり、はたまた狐狸妖怪のたぐいのものであったりする。さらに自然災害にまつわるもの(地震、洪水)大火事の話、細かくは作物や食料、年中行事などまでさまざまである。そうした物語の積み重ねの上に、現在の土地が成り立っていて、そこに住むわれわれ人間はそれを無視することができない。なぜならわれわれもまた、その物語の延長線上にあって、様々な影響を受けているからだ。例えばその土地でできる作物や発酵食品と我々の体を仲介するような、身体の中に共生している微生物が、土地によって違うらしい。その土地のもの、近くのものを効率よく体に栄養として取り込むようにできている。最近、特に若い人に多い食物アレルギーも、食品添加物やいろいろ原因があるのだろうけれど、よその土地、それもうんと遠い場所でできたものを口にすることが多くなってきたのも一因のような気がする。人間の体というのは、案外その土地にしばられているものだ。

どこの家にも物語はある

 そしてどこの家にも歴史があり、物語がある。多くの人に知られるようなものではないが、それなりにダイナミックでドラマチックな物語が、それこそ人の数だけある。自分の記憶に残っている範囲でもさまざまな物語がある。繰り返し繰り返し行われる、家の年中行事。お正月の祝い方、桃の節句、端午の節句、茅の輪くぐりや足つけ(下鴨神社の夏越の行事)、クリスマス、お誕生日の祝い、何となくワクワクする行事の数々と、その背景にある季節の移り変わり。日常生活の想い出。夏の蚊帳、行水、冬のこたつ、火鉢などなど。さらに記憶にあるおじいちゃん、おばあちゃん、記憶にはないけれど、両親から聞かされていたご先祖の話。幾千の話の続きに自分がいる。どこの土地にも歴史があり、どこの家族にも物語がある。この2つの物語が交差したところが「家」だ、ということができないだろうか。そうであって初めて、過去からの様々なものが有機的に未来へとつながっていくように思われる。だがこれらの物語は、価格だとか金額に置き換えることはできない。また家という建物の工学的な数値に置き換えることもできない。今の家の評価は、もっぱら現代生活に対応した利便性、交通の便のいいところ、公共施設から近いところ、での土地評価や、便利な設備がどれだけ取り込まれているか、の評価でしかない。過去からの物語はぶつっと分断されている。社会の様々なものがどんどん変化しているように見えても、人間、そうは変化できないものだ。流れの外に、中央の速い流れから離れて、はしっこのゆったりした流れに身を置くことも必要だろう。(2022.7.20)