コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.57

松井薫の「隠居のたわごと」vol.57

隠居のたわごと

町家の継承には物語が必要

 建物が壊され更新されていく一番のきっかけは、世代が変わるときだろう。世代を超えて同じ建物が継承されていくには、そこに住む人を支える「物語」が必要だ。古くからある寺院などの建物が継承され続け、たとえ焼けてなくなっても、以前と寸分たがわぬ建物が新たに作りなおされるのは、その地域なり地方なりその国の人の共通の物語があって、それがなくなると、今まであった風景がなくなり、語り継がれていた歴史の証拠がなくなり、毎日の心の支えとしていたものがなくなってしまう、という意識があって、どうしても元の形を次に伝えたい、と強く思うものだ。それが伝統的な寺院の存続を促す力になる。町家の場合は、次の世代との共通の物語がうまく続けられない場合が多い。町家に生まれ育ってきた親世代は、町家の中での日々の生活の繰り返しが、一見、同じことの繰り返しのように思えるが、その経験がフィードバックされて新たな五感からの入力になり、脳で処理され、行動として出力される。このループの中で、少しずつ何かが身につき、神経にも蓄積されて、自身のなかで大きな物語が形成されるようになる。(スポーツ選手が何度も何度も同じ運動を繰り返す中で、一瞬の素晴らしい技を発現するのも同様だ)それに比べて引き継ぐべき子供の世代は、どんどん新しいものが次々と目の前に出現してくる世の中にいて、新しいものを何とか取り込もうとすることで一杯になっている。親世代の経験と知恵の詰まった物語よりは、ネットで検索したあやうい情報のほうを重要視して、そちらが正しいと思いこまされてしまっている。ごくたまに、背景にある物語を感じることのできる感性を持った子供世代の人がいると、町家は幸せな継承をすることができるが、大部分はそれを求めるのは無理というものだ。そこで、町家の背景にある物語を敏感に察知することのできる人(直接の子供世代以外の人)が、その存続と活用を願って町家を継承するといふうに範囲を広げることで、継承の可能性が広がる。

 町家についての不動産情報は、単なる敷地、建物の大きさ、間取り、築年数などだけでなく、そこで営まれてきた生活の物語を(その断片だけでも)盛り込んだ情報とする必要がある。(2025.2.19)