コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.3

松井薫の「隠居のたわごと」vol.3

隠居のたわごと

磯野波平54歳

 江戸時代では、平均寿命が50歳そこそこだったと聞く。成人して20歳を過ぎればもう中年と呼ばれ、40歳代の後半には、第1線を退いて隠居した。今でいえば働き盛りの年代である。ホンマかいなと思われるだろうが、国民的マンガの長谷川町子作「サザエさん」では、昭和21年に書かれだした当初、サザエさんのお父さんの磯野波平さんの年齢は54歳!それであの波平ヘアーの表現なので、54歳で十分じいさんとして書かれているのを見てもわかるというものだ。

京町家で商売をしていたその家の主人は、20代半ばでは店を継いで、ベテランの番頭に補佐されながらも商売に没頭していく。結婚し、子供も生まれ、ますます張り切って商売をしていくうちに、やがて40台の半ばまで来ると、ぼちぼち次に仕事を譲る段取りを始め、自分は隠居となって、ハナレに住むようになる。ハナレに住むようになって初めて見えてくるものがある。ずっと没頭していた「ソロバン勘定」の世界から「はなれ」てみると、庭の風情が心にしみる。今までは年中行事の一つとして、庭の手入れを手配し、正月にはそれなりのしつらえをしていたのが、全然違って見えてくる。季節の移ろいに身をゆだねていると、自分がいた世界が実にちっちゃな世界であったことがわかってくる。あんな取るに足らないことで大騒ぎをしていたのか。と、ふと昔、子供だった頃に祖父や祖母から聞いた話が思い出されたりする。ソロバン勘定に関係ないのに、と思いながら、むりやりやらされていたお茶の稽古や仕舞の稽古の奥深さがやっとわかってきたりして、今度は自分の孫に、それとなくいろいろな話をしていたりする。

こうしてまだ脳ミソの健全なうちに、人間が都合で作り出した社会から一歩離れて、全体を見渡せるようになるのが、この当時の隠居だった。その住まいが「ハナレ」で、(母屋はべんがら塗でもハナレは素地のままの仕上げが習わしとなっている)人はこの時期に人間としての成熟を迎え、受け継がれてきた「知恵」や文化を次へつないでいく大切な役割を担っていた。

 現在目の前にある町家はそういう時代背景の時に成立したものだ。比較的新しい昭和初期のものも、その時代には、コンピューターもDNA解析もなかったし、明治期であれば、飛行機は飛んでないし、自動車も生まれたばかり、街には電気の街灯はなく、ヒトはどうして進化したかもわかってないし、月の表面がどうなっているのかすらわからなかった、そんな時に建てられた家が、町家としてここにあるのだ。こういった過去が織り込まれて現在があり、現在を経由して、いずれ未来に織り込まれていくことになる。

(2020.5)松井薫