コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.49

松井薫の「隠居のたわごと」vol.49

隠居のたわごと

「懐かしい」という感じ

 最近、あちこちで昭和レトロとかいう言葉を耳にするようになった。町並みも昭和レトロな町並みで人を呼んでいるところもあるし、昭和ぐらしで令和を生きる、なんていう本がでたり、レコードが売れるようになったり、喫茶店(カフェではない)のメニューにクリームソーダやみっくちゅじゅーちゅ(ミックスジュース)が復活したり。こういうものを見ると我々は以前を思い出して「懐かしいなあ」と思う。これに似ていて、でもちょっと違うのが、町家の中に入ったときに、一度も住んだ経験のない若い人たちも、なんか懐かしいという。

これはなぜなんだろう。

 現代の生活は、どんどん便利なものが出てきてそれを使いこなす前に、さらに新しい便利なものができてきて、誰かが、これはいいよ、といえば何とかそれを使えるようになりたい、と新しいものの使い方を追いかけているのが現状だ。ものすごく多くの情報が人々のまわりにあって、それらを瞬時に見て判断するような生活ぶりになっている。そして気がつけば得体のしれないものに囲まれて毎日を送っている。それでもどんどん情報が送られ、しかも瞬時に判断することを迫られる。専門家がいいといったものを信用して使っていても、自分には不具合なことも起こってくる。一瞬たりとも気を緩めることができない。ストレスの多い社会で生活せざるを得ない。体にいいはずのサプリメントが病気を引き起こしたり、抗菌処理がされている空間で暮らしているのにアレルギーで悩まされたりする。住まいの中も、どんなものの組み合わせでできているのかわからないシート状のもので包まれている。住んでいる人はそれがいいと思ってわけのわからない、サランラップにつつまれたような空間で暮らしているが、どことなく不安に思っている部分もあるはずだ。

 それに比べると、町家の内部を作っている材料は、杉やヒノキなどの木、イグサを編んだ畳表、障子などに使われる和紙など、昔から使われている材料で、(深くは知らなくても)知っている素材だ。しかも自然素材なので、自然の一部である人間にとっては、心地よく、懐かしいという感情がわくのだろう。人間の手が入っているのだが、作った人の「手の跡」が見える形で残っている。ここには確かに血の通った人間が、意識を集中して作業したあとが感じられる。この感覚が、技術に追い越された現代人にとっても、納得する感覚で、懐かしい、と思われる要素になっているのではないか。(2024.5.20)