コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.46

松井薫の「隠居のたわごと」vol.46

隠居のたわごと

京ことばと京町家

 もうほぼ死語に近い京言葉に「かにここ」というのがある。多分、おおかたの人はそれが何を表すのか、どういう風に使うのかわからないと思う。私の父は「かにここ間に合うた」などと時々使っていた。ギリギリ何とか間に合った、という感じだが、もう私の代になると使ったことがない。言葉は変遷が激しく、特に最近は勝手な略語だとか、若い連中の間では意味が通じ合うニュアンスの言葉とかが大量に出てきて、翻訳してもらわないと何を伝えたいのかがよくわからないのが現状だ。言葉は社会の変化に対応して変化しているようなので、社会の変化する速さがものすごいということだろう。

 京町家でいうと、例えば「床の間」なんて言うのは、何を指すのか、どういう働きをするのかわからない人が増えている。「床の間って何?」「無駄な空間じゃん」という具合である。町家特有の「おくどさん」や「はしり」なども町家に住んでいる人以外は「それ何?」という具合になってきている。それぞれにちゃんとした役割があり、生活する上で欠かせないものだったし、とても合理的に作られているのだが、そんなこと知らなくても(表向き)社会の一員として生活できるので、言葉も消えてしまう。言葉が消えると、そこに含まれていた生活文化もなくなってしまうことになる。季節ごとに床の間に花を飾り、軸をかけ、家の年中行事としてあった3月3日、5月5日、7月7日などの節句ではそれにふさわしい飾りつけをして、季節の節目を感じていたのに、意味も感じる余裕もなくなっている。そのうち柱や梁も何のことか、どういう働きをしているのかわからなくなりそうだ。今の住宅は床と壁と天井で囲まれた部屋になっていて、柱や梁は表にでてこないからだ。言葉は消えてなくなると記憶からもなくなってしまう。京町家の様々な部位については、町家が存続している限りは消えてなくならないし、目の前にある「床の間」という言葉もなくならずにいられる。

そうすれば、知らない人が、例えば一段高い床の間が写真撮影に都合がいいからと乗ったり、空いているスペースだからと持ってきた荷物を置いたりしたら、「それは違う!」「床の間はこういうものなのでそのようなことはしてはいけないことになっている」と説明できる。

これが、建物としての京町家がなくなり、そこに合った生活文化も引き継がれなくなると、人々の記憶からも消えていく。世間では災害や戦争があったことを何とか語り継ごうと努力されているが、痕跡が残っていても代が変わると直接の記憶をもたない世代には、語り継いでいくことが困難になっていくように、形が残っていて、そこでの生活の記憶が積み重ねられていないと、京町家の良さも、生活の合理性も消えてなくなってしまう。(2024.2.20)