コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.14

松井薫の「隠居のたわごと」vol.14

隠居のたわごと

神も佛もありません

 気が付いてみると、新しい家を作るとき、新しい生活を入れる家にするために改修する時、神棚や仏壇の置き場所を用意することがなくなってきました。以前なら家で執り行われていた出産や子供の成長を祝う行事、結婚式、最後の看取り、葬式も今ではすべて外部の専門のところに任されています。それどころか毎日の食事も外部に委ねられることが多くなってきました。立派なシステムキッチンはあるのですが・・・。

 これと同じ流れで、家には必ずあった神棚や仏壇がなくなり、必要な時(といっても世間的な体裁上で、本心では必要を感じていないか、都合のいい時だけの神頼み)には神様は神社へ出向いて、いくらかの初穂料なりお賽銭をお渡ししてことを済ませていますし、先祖の供養にはお墓やお寺へ行ってお布施をお渡しして済ませています。いわゆるアウトソーシングによる効率化が図られているわけです。

 しかし、毎日の生活に神棚があり、仏壇があるのと、それらがないのでは、気持ちの整い方が違う気がします。毎朝、神棚の榊の水を替え、柏手を打って一時(いっとき)世間の喧騒から離れる、また仏壇の花の世話をして、ろうそくや灯明に火を入れ、お経を読まないまでも呼吸と気持ちを整える、といったほんの少しの時間が、繰り返されて習慣になり、積み重なっていくのが、いままでの日本の生活の基本であったような気がします。このひと時があることで、五感が刺激され、季節を感じることができ、自分のいる位置が確認されます。これにより、足が地に着いた身の丈に合った生活が営まれて、日々の生活が楽しく充実したものになります。

 今の外出自粛要請がだんだん効果がなくなって、若者も中年も年寄りも外へ出たがるのは、桜も咲きだして、いい季節になってじっとしてられない、という気分もあるでしょうが、家の中に楽しいことがない、やるべきことをすべて外部に依存してしまっているので、外へ出ないとやっていけない、というところにも一つの原因があるのではないでしょうか。 (2021.3.17松井薫)