コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.4

松井薫の「隠居のたわごと」vol.4

隠居のたわごと

マッチの火を借りる

 マッチが日本で一般に使われだしたのは、おそらく明治時代の中ごろだろうから、いまからおよそ130年ぐらい前。それまでは簡単に種火を作ることは出来なくて、24時間、365日どこかに火があって絶やすことはなかったものと思われる。いや、そんなことはないだろう、小学校の時に、虫眼鏡で太陽光を集めて、黒い紙に火をつける実験をやった、とおっしゃるかもしれない。が、あれは虫眼鏡というレンズと太陽光が必要。曇っていてもダメだし、夜には無理。いやいや、木と木をこすりあわせて火がつくよ、現に神社とかで今でもやっているってか。あんた、木と木をこすりつけて火をつけるの、やったことあります?ボクはありますよ。ヒノキは火の木とかいいますが、あんなんできるものやないです。ずっと若いとき、友人と2人、御所でたばこを吸おうと(なんか生意気ですね)思ったけれど、2人ともマッチもライターも持っていない。火を借りるような人が廻りにもいない。木切れが落ちていたのを拾って擦ろう、ということになって(バカですねえ)擦りだした。木の表面は相当に熱くなる。これはいけるかも・・・と必死でこするが、いっこうにそれ以上の変化がない。タバコを吸いたい一心で、なおもがんばるが、ちょっと煙のようなものが出たかなあ、という程度で、腕はだるくなるし、時間はどんどん過ぎていくし、で、あきらめた経験がある。この時、なぜか意味もなく、昔の人はえらかったなあ、としみじみ思ったものだ。

マッチのできる前

 一番初めは自然の山火事などで出た火を利用したのだろうと思われるが、火は大変大事なものだった。一度消してしまったらつけるのが大変(火打石とホクチでも結構大変)なので、家の中には必ずどこかに、安全に火を継続して保存しておくところがあった。人類の火を使う歴史からいうと、ごく最近までそのような生活だった。長屋の生活などでは、一人暮らしの職人の家などは、必要な時に種火をもらいに大家のところへ行っていた、という場面が落語の中にも出てくる(延陽伯)。いずれにしても、家の中でナマの火をコントロールする術を心得ていたわけで、いまよりもずっと火に対しての意識は高かった。京町家を例にとると、火のあるのは土間で(当然か)その部分は天井がなく、吹き抜けになっていて、万一火が出たときは、吹き抜け部分に火が上がり、しかも両側の壁は土壁で下から上まで塗り込められてあり、火を横に走らせないように(人間が逃げられるように)なっている。もちろん火を出さない意識も非常に高く、どの家でもおくどさんの前には火廼要慎という愛宕さんのお札が貼ってあり、町内では夜回りをして火の用心を呼びかけていた。その結果、京都では江戸時代を通じて、大火は3回しかなかった。(火事とけんかは江戸の華の江戸では、3年に1回は大火事があった)

マッチ革命

 それが、今はどうだ。第二次世界大戦後、都市の不燃化を目指して、建物は燃えにくくなってきたものの、火事は頻繁に起き、皮肉にも建物は残っても、中の人が焼け死んでいる。どうしてこうなったの?マッチという便利なものが発明されてからおかしくなったのかもしれない。マッチの発明はすばらしいものだった。家を空ける時は、火を消して出ていけるし(それまでは、誰かが残って火の番をしていた)、種火をもらいに行く付き合いもしなくていい。でもそれによって、火への意識はうんと薄れることになった。火の「暖める:調理する」という機能は、ガスへ、電気へ電磁へと変化していき、火すら見えない状態で、調理したり暖めることができるようになった。また火の「明るい」という機能は、電気を使って電球、蛍光灯、LEDなどの灯りになった。機能だけを見つめて、突き詰めていくと、火の持っている総合的な意味合い(焚火に人が集まる、暖かく明るく揺れる炎、木のはぜる音、におい)がなくなって、意識もなくなり、結果、しっぺ返しを食らうことになる。焚火は形を変えてでも復活したいね。

2020.5 松井薫