コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.5

松井薫の「隠居のたわごと」vol.5

隠居のたわごと

町家を建てる

 まちなかの大きな町家にお住いの方と話をしている中で、蔵のなかにこの家を建てたときの記録があるよ、とのことで、家を建てるときのいきさつを、絵入りで記録されているのを見せて頂くことができた。これが大変に興味深い。その内容をかいつまんで見てみる。

 家を建て替えるいきさつについては、「明治四十年ニ至リ家運日々順調ニ進ミ、店員益々増加シテ居宅狭隘ニ告ゲタリケレバ、茲ニ本屋及ビ店ニ棟ヲ改築セントシ・・・」と当初は手狭になった家を改築の予定だったものが、建て替えなさいという「懇篤ナル注告アリタレバ」建て替えになった。そこで材木商と頼んだ大工の棟梁を「近江木之本ヘ差遣シ、同地ニテ松ノ立木ヲ買入シ、伐リ倒シテ其儘半年ヲ放棄シ」と、隣の滋賀県の琵琶湖の北東にある木之本の山へ、大工の棟梁と材木屋を派遣して立木を買い、切倒してその場で『葉枯らし』乾燥をさせている。木はご存知のように乾燥していないと安定しないで反ったり曲がったり割れたりする。少し詳しくいうと、木の細胞の細胞膜の外にある「遊離水」をまず乾燥させ、さらに硬い細胞膜の内側にある水分も引っ張り出して乾燥させないと、割れたり捩じれたり「暴れる」わけだ。切倒した木を、葉をつけたまま放置しておくと、中の水分が葉からどんどん蒸散して均等に乾燥させることができる。(今一般的にされている人工乾燥では、時間は短縮できるが、木の中心部分が乾燥しにくい)しかも不要な水分が逃げていったおかげで重量も軽くなり、運搬が楽になる。(当時はもちろん手で運んだ)記録に戻ると、ヒノキ材も同様に「土山・西手・宮山ニテ」立木を購入し、十分乾燥させている。その他の栂やヒノキ材は「名古屋亦ハ岐阜地方ヨリ」良材を選んで、それぞれ一旦「彦根停車場前運送問屋」へ集結し、同じく彦根にある近江養蚕場へ運搬している。材料を集めるだけで、すでに2年の月日をかけ、立木を切倒し、乾燥させ、運搬して1か所に集結している。次に、近江養蚕場の中に「大工小家木引小家等五カ所ヲ設ケ、多数ノ大工木引ヲ傭入シ、木作リニ従事セシメタル・・・」といわゆる「キザミ」の仕事を木材の集積場でさせている。これは運搬にかかる労力が大きいため、加工・下ごしらえまでして、本当に必要なものだけを京都の新築する場所に運ぶためだろう。木之本からの運搬は当然、琵琶湖を船で運んだものと思われる。

「明治四十三年ニ至リ愈現地所ニ於テ、本宅及ビ店二棟・・・土蔵一棟ヲ建築シ、座敷床廻リ出書院其他細工用ノ化粧材ハ、総テ大阪方面ヨリ買入シ、六月ニ至リテ全ク竣工ヲ告ゲタリケレバ・・・」7月5日に仮店舗から移住し、諸々の飾りつけを終えて、7月23,24日の祇園神事に間に合わせている。その年の11月6日から11日まで「親族知己ヲ招キテ、新宅披露ノ為ノ祝宴ヲ開キ」、続いて11日から15日まで「圓山左阿弥摟ニ於テ、得意先仲買職方及ビ懇意ノ人々等」を招待して「盛大ナル披露ノ宴ヲ張タリ」とある。材料調達から4年の歳月をかけて建物を新築し、関係者を呼んで連続10日間の祝宴をやっている。こんな大仕事を成し遂げられたことについて、「商業開始以来實ニ三十年間、拮据勉勵ノ功空シカラズ」と自分で自分をほめてやりたいといい、「當初ヨリ宗教ノ本義ニ基キ、慈善ニ心ヲ寄セ、且ツ神社仏閣ノ世話ハ勿論、奉納寄進ヲ怠」らなかったので、こんなにすばらしい家屋が出来、祝いの宴も開けたのだと書いてある。そこには信心して、一生懸命仕事に励めば、きっといいことがある、という日本古来の素朴だけれど自然を畏れ、神を畏れて一心に生きてきた精神が見られる。

 これは、いわゆる大店(おおだな)と呼ばれる、大型町家の例だが、多かれ少なかれ一大決心のもと、長い年月をかけて多くの職人の知恵が集結し、作り上げられたのが町家なのだ。それを時代遅れだとか、建築基準法に合ってないとか、生活するのに古くて、寒くて、暗い、とかで簡単につぶしてしまっては、とりかえしのつかないことになる。自然の時間の流れの中で、木を育て、材料を集め、組み立てて出来上がったものを、少しずつ修正しながら使い続けてきた町家は、自然の一部である人間にとって、もっとも住みやすい家のはずなのだ。頭の中で操作することで完結する(家も現在は大部分が土地や風土とは関係なく、マニュアルで作られる)「情報化」社会になって、人間が自然の一部だということはすっかり忘れ去られたような気がする。(2020.6)