コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.12

松井薫の「隠居のたわごと」vol.12

隠居のたわごと

いろはにほへと

 いろはにほへとは、ずいぶん前から知っていた。ごく小さい子供でも知っている。その頃は、いろはにほへと/ちるぬるおわか/よたれそつね/ならむういの・・・と七音ずつに区切って覚えていた。そんなん知ってるわ、と思っていた。でもそれが、「色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」なんだと知ったのは随分たってからだったと記憶している。そんなん知ってるわ、から、なんやようわからんけど、歌になってるのや、となった。さらにそれが涅槃経第十三聖行品の偈「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」の意を和訳したものだというのは、本当につい最近知った。

小さい頃の「知っている」ほどあてにならないものはない。(今も一緒か)。 色は匂えど散りぬるを(香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう)「諸行無常」 我が世誰ぞ常ならむ(この世に生きている私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない)「是生滅法」 有為の奥山今日越えて(この無常の、有為転変の迷いの奥山を今、乗り越えて)「生滅滅己」 浅き夢見じ酔ひもせず(悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない、安らかな心境である)「寂滅為楽」 と一応説明されている。わかったような、わからんようなことだけれど、現代のわれわれから見ると、毎日の生活に追われている日常と、それを成立させている自然や、さまざまな現象世界を含んだところに「現世」を見ていて、それからの脱却、解脱をいっているのに気づく。ここで言われている日常は「常ならむ」ものとしてとらえられている。(今のコロナウイルス蔓延の日常も、言われてみれば常ならむこと)現代人はここに行き着くまでの距離が遠いので、通常はどうやって明日のメシを確保しようかという一点に埋没してしまっている。

スキューバダイビング

 その結果過大なエネルギーの使用を野放しにして、それどころか、ますます過大に使う事を奨励して明日のご飯の確保をしようとしているために、さまざまな、人間にとっての不都合が現れてきた。その不都合から身を守るために、今度は家をカプセル化して内部環境の快適さを追求するようになる。外部と遮断して内部を整えることは、一見合理的に見えるけれども、遮断することで、外部がどれだけ危険なのかがわからなくなる。宇宙に漂っているカプセルならば、外が危険なことは承知できるだろうが、地上に建つ家であれば、外部と遮断することで意識は内部の環境の快適さを確保することに向かい、外が嵐だろうが、硫酸の雨が降っていようがいっこうに気にならない。これが命取りになる。酸素ボンベを背負って海中を泳ぎ回るスキューバダイビングでも、これはこれで海の中の別世界を体験できるすばらしい経験だが、いくらでも息ができるので、どんどん行ってしまい、ボンベの中の酸素がなくなれば危険きわまりない海中にいることなど、すっかり忘れる。そして死んでいく。今の住宅のつくり方はこの危険がある。構造体が頑丈で、内部の快適な家は、実は危ない!のだ。町家は夏暑い、冬寒い、暗い、不便だ、とボロクソに言われるが、外の温度や光や風に影響されながら、それらをうまく活用し、温度や光や風の大きすぎる変動は緩和しながら季節に合わせて生活をするように作られている。そのような家でないと、日常と非日常を行ったり来たりできないし、さらにその上の段階の、いろはにほへとで言われていることなど、とてもできないことになる。それにしても、すべての仮名を1回ずつ使って、これだけの内容をもつ歌が、平安時代?に作られていて、子供に文字を教えるということを通じて、知らないうちに生きていくうえで大切なことを刷り込んでいく。はじめは文字の練習だったものが、歌だとわかり、さらにその内容が人間の究極の目標を伝えている、なんて、奇跡!! 

(2021.1.20松井薫)