コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.18

松井薫の「隠居のたわごと」vol.18

隠居のたわごと

夏を涼しく

 京都の夏は暑い!蒸し暑くて寝られない。そこでエアコンで快適に過ごしましょう、となるのですが、ここ50年ぐらいかけて追及してきた「快適」って何なのでしょうね。快適といわれる温度・湿度を一定に保つだけでは、それに対応する特定の微生物の大量の繁殖を招くだけだし、人間の免疫力・抵抗力も弱めてしまいます。やっぱり夏は暑く、冬は寒くなければならないのです。でも最近の夏の暑さは身体にこたえます。もう少しほどほどに暑くならないものでしょうか。室温が体温を超えて、部屋の壁も床も、いろいろと置いてある小物も、さわるとどれも暖かく感じるというのは、いささか行き過ぎの感があります。ドウスル?

涼しさを連想する

 ここでもやっぱり、ちょっと昔の人のやり方が参考になります。ちょっと昔の人は祇園祭の前になると、家の建具の入れ替えをします。冬の障子を全部はずして、葦戸(よしと)に入れ替えるのです。この障子と葦戸の入れ替えというのも大変な知恵で、冬の障子は障子紙という断熱材で仕切ることによって、動かない空気の層を作り、外部の冷たい空気を遮断しながら、光は障子紙で拡散して室内に取り入れる。反対に夏の葦戸は、葦と葦のスキマから風は通し、外部の光はうんと絞って室内を暗くして涼しさを演出する。こうしておいて庭に打ち水をすると風が起きて、すーっと葦戸のあいだを通る。その風が、縁側の風鈴を鳴らし、蚊取り線香の煙を揺らせる。風鈴の音色も蚊取り線香の煙も、目や耳や鼻を総動員して、「風が来た!」を連想させます。風が来れば体感温度は下がり、涼しく感じるのです。それも庭の木陰の涼しい風がやってくるわけです。すると、今までの経験の中で、涼しい!気持ちいい!と感じたことがよみがえって、温度以上に涼しく感じる。これで十分夏の暑さをやり過ごせた(この、やり過ごす、という感覚も大切)わけです。(昭和ですねえ。それ以後に生まれた人には通じないやり方かも)。それを現代住宅は、室温が下がらないと涼しいとは言えない、としゃくし定規に暑さに対抗してしまっています。その結果、夏なのに部屋を閉め切ってエアコンをかける生活を強制し続けていることになります。エアコンの普及が家から庭を追い出した結果、庭の存在は忘れ去られ、家の外はモルタル仕上の駐車場か、ユーティリティーという名の空き空間で、日光の照り返しばかりがキツイ。こんな時に窓なんか開けたって、余計熱い風が入ってくるだけ。でもエアコンがあるもんね、とばかりにエアコンをかけ続けていると、カビが生えてきて、それを退治するために薬を使って、それにも負けないカビがさらに生えてきて・・・、と悲惨な光景になるのです。やっぱり小さくても庭があるというのは決定的で、そこに木や草があって、風が通るように考えられた家で、暑い暑いといいながらも、涼しくなったつもりで夏をやり過ごす、これが人間の生き延びる道です。そうそう、夏には縁側で冷ややっこに冷たいビールをグビッといく、という強い味方もあるしね。

(2021.7.20)