コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.37

松井薫の「隠居のたわごと」vol.37

走りにわ

 町家には入り口から奥へと続く土間があり、通りにわと呼ばれている。「にわ」とは、古くは神様を迎えて祀る広い場所のことだったが、清められた場所で作業をすることから作業する場所をにわと呼んでいた。町家にあっては敷地内の床のない部分をにわと称している。

通りにわの中でも特に流しのある場所を「走りにわ」という。

走りにわとは、何が走るのか。おかーさんが走るのか、ねずみが走るのか(走りの下のねずみが、ぞうりをくわえてちゅっちゅくちゅ、というわらべ歌もあるが)、そうではない、水が走るのだ、というのが私の想像。

流しとは調理の際に水を流すところで、日本料理の「調理」とは素材がどうなっているものかを見極めて、包丁を入れ、整えることをいう。魚にしろ、野菜にしろ、命あるものをいただくために理にかなった方法で加工をする。素材の生命、魂を清らかな流れる水で浄化する場所が流しで、浄化する水が走っている場所が走りにわというわけだ。そうして調理されたものが食卓に並ぶことになる。そして、それを食べるときは「いただきます」という。私たちは命あるものを食べないと生きていけないので、食べるときには、ありがたく(命を)いただきます、というのが自然な気持ちだ。

 それが上下水が完備し、ガス設備が各家庭にいきわたってからは土間ではなく、他の部屋と同じ高さの床の上にシステムキッチンが並ぶようになった。このキッチンでは、魚丸ごとを(さば)くことや、土のついた野菜を下処理するのが、せっかくきれいなキッチンが汚れてしまう、と敬遠されるようになった。切り身や刺身になった魚や、きれいに洗われてキチンと揃えられた形のいい野菜とかを買ってくるのがせいぜいになった。そして台所の流しも「走り」とは言われないようになってしまった。と同時に、魚や野菜の魂を浄化するという感覚もなくなってしまった。今では食卓での「いただきます」がかろうじて残っているぐらいだ。それすらもインスタントラーメンに湯を注ぎ、3分待ってすする時には頭から飛んでいる。

 走りにわで作ったインスタントラーメンは、どこで素材が浄化されているのだろうか。

(2023.3.20)