コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.25

松井薫の「隠居のたわごと」vol.25

隠居のたわごと

糸巻の戦車

 江戸から昭和の戦前までの町家は、構造そのものの持つ性質に加えて、生活の作法とでもいうべき運用ソフトの徹底で、その安全性と快適性を保ってきた。京都の町なかの商家であれば、朝は表のかど掃き、水まき、拭き掃除、おくどさんに火を入れる、朝ごはんの用意…から始まって、夜の火の元の確認、戸締りまで、毎日の生活の仕方が決まっていた。また、季節ごとに行われる建具の入れ替えや、衣替え、正月や節句、祭りなどの年中行事に対応する準備、衛生掃除や大掃除があった。それがこの50年ぐらいでガラッと変わった。人が休んでいる時こそ稼がねば、という風潮が強まり、一斉に休んでいた正月でも、元旦から普段と同じように営業するところも多い。江戸時代であれば罰金ものである。また、人が休んでいる夜にする仕事(怪しいお仕事ではなくて)もずいぶんと増えている。人々は、会社と直結しており、家は体を休めるところで、極端にいえば生活するところではなくなってきている。そうなると、共通する生活作法なんて無視されるし、町内会は崩壊してしまう。運用ソフトがなくなった町家は、もう使い物にならない、といわれるようになってしまった。人々はロジカルで効率のよい仕組みによって、生活そのものを支配されてしまっている。

 しかし、その中で生活している人間自体が、理屈ではわからない自然の産物なのだ。やはり自然の仕組みとの長い付き合いの中で培われた生活の作法や、自然と共生している町家が、生活の場としてはよりふさわしいと思える。

 とはいうものの以前とは生活スタイルが変化した。時代に即して変化していく生活スタイルを活かすように、町家もアレンジが必要だ。その時底辺に流れている考え方が大切になる。情報化時代に即して多くの情報の中から、有用なものを選択して集めるのか、身近にあるものに手を加えて有用なものにするのか。町家の構成要素はもちろん後者だ。同じ風土に育った木を使い、近くの土を使う。それらの特性を見抜く目と、特性を生かして使う技術を持った職人が、その場その場に応じて臨機応変に組み立てていく。身近にあるものを有用なものに作り替えていく、という考え方が基本にないとできない。子供の頃、父が糸巻きと輪ゴムと割りばしで戦車を作ってくれた。糸巻の両輪に肥後守で切り込みを入れ、中に輪ゴムを通し、滑りの良いようにろうそくを輪切りにしたのを間に入れて、端に割りばしを入れ、割りばしをくるくる回して輪ゴムをよじり、手を放すとカタカタと動き出す。ものすごくおもしろかった。(今の子供たちは喜ばないだろうが)飽きずに遊んだ。身近にあるものが、加工され、組み合わされると全く違った働きをするのが、何より面白かった。この気持ちが底辺にあるかないか、だ。今のおもちゃはもっと複雑な動きをするのだろう。子供たちはその動きに目を奪われて夢中になる。夢中で遊んで壊れると、直せないのでゴミになる。片や糸巻の戦車は、作られる過程を見ているので、材料もわかるし加工の仕方もわかる。動かなくなれば自分で直せる。人間の命を守る家でいえば、情報を駆使して有用なものを集めて作った家は、安全性を他人の作った内容のよくわからないものや、仕掛けがよくわからない機械に委ねているようなものだ。命をそんなものに預けて平気なのですか?と聞きたくなる。

(2022.2.20)