コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.33

松井薫の「隠居のたわごと」vol.33

隠居のたわごと

江戸時代のコメ事情

 江戸時代の言葉に「起きて半畳、寝て一畳、飯を食っても五合半」というのがある。いろんなことをやっても所詮、人間の等身大の生活はこんな程度だ、ということを表している。それにしても「飯を食っても五合半」は多すぎないか、そんなに食べるのは、体を大きくするのが仕事のような相撲取りぐらいでしょう、と今の私たちでは思ってしまう。でも江戸時代は本当にたくさんコメを食っていたようだ。武士(といっても下級武士)で10人扶持というのは、1年に食べる10人分のコメが支給されていたわけだが、この時の基準が一人一日5合。1年で一石八斗、10人扶持で十八石(年収113万円)だった。

 その頃は、コメを脱穀した後の稲わらも使い道が非常に多くあった。堆肥に使うのはもちろん、縄をなったりそれを使って網状にしたり、蓑やわらじを作ったり、俵にして米や炭の入れ物にしたり、編み込んで敷物にしたり、藁ぶき屋根の材料になったり、それらの使い道が終わると最後には燃料として燃やすことができ、そこでできた灰は火鉢に入れたり、染め物の触媒として使ったり、肥料として田んぼに戻したりした。よく食って、そのあとのものを無駄のないようによく使い、そうして循環していた。

 今は、一人一合も食べないだろうし、藁をそんなちまちましたことに利用するなんて貧乏くさい、とばかりに、収穫した後の藁は、機械で米を刈り取ると同時に細かく切断されてしまう。縄を作ったりするためには、有機栽培された米を特別にカマで刈って日光にさらし、脱穀機で脱穀するという、今の時代には手間のかかるやり方をしないと長いままの藁が得られない。昭和30年代の記憶では、家でも、炭をいれた俵を、年末に家の前の道路で焚火にして(副産物として焼き芋ができる)わら灰を作り、火鉢に入れていた。それが、現在では炭火の良さを伝えたくて、火鉢の使用を勧めるとき、灰の調達に苦労することになる。古い町家が不幸にも解体されたり、改修の時にいらない火鉢が出てきたりしたときには、中の灰だけをもらいに行ったりしていたが、だんだんそういうものも出なくなってきた。田舎の田んぼで古い畳の藁床を燃やしてもらって(都市近郊では燃やせない)、灰を作ったりしたこともあった。

 古い建物と生活の良さに取りつかれてしまった身としては、それを伝えたり実際に体験してもらって納得してもらうのに、ずいぶん苦労しなければならない。(それも楽しいんだけどね)(2022.11.20)