コラム | 松井薫の「隠居のたわごと」vol.35
松井薫の「隠居のたわごと」vol.35
急須でお茶を入れる
年が明けた朝、家族がそろったら大福茶で新年を祝う。薄手の上等の清水焼の煎茶器に結び昆布と小梅を入れ、急須に玉露の葉をたっぷり入れて、小さなやかんから一度湯冷ましの器に湯を入れて、頃合いを見計らって急須にそそぐ。しばしの沈黙のあとにゆっくりとお茶が注がれる。一瞬でお茶のいい香りに包まれる。全員の分を入れ終わったら、家長の新年の一声にみんなが唱和して、一斉に大福茶をいただく。毎年変わらない新年朝の風景だ。
一方、普段では急須でお茶を入れることは本当に少なくなった。お茶といえばほとんどがペットボトルのお茶。テレビに映るこの国の偉い人たちの会議でも、机の上にはずらっとペットボトルのお茶が並んでいる。ペットボトルのお茶はいつ飲んでも変わらない味で、手軽に手に入り、飲んだ後は捨てればいい。またはリサイクルに回せば「地球にもやさしい」ので後ろめたい気分にはならない。(リサイクルといっても回収して作り直すのに、作るのと同じくらいのエネルギーを使うんだけどね)それと比べると、急須のお茶は入れ方によっては味が違うし、第一、道具を出してきて、お湯を沸かし、お茶の葉を入れて・・・とお茶を一杯飲むために格段の手間がかかる。しかも、急須でお茶を入れるとなると、お湯の温度やお茶の葉の分量、入れて待つ時間など、おいしいお茶を入れるには経験が必要だ。さらに、お茶の葉を入れるときに、このお茶は宇治のお茶だとか静岡だ、八女だ、知覧だ、とその産地が気になる。そしてそれが玉露か煎茶かなどでも入れるタイミング、待つ時間が微妙に違ってくる。邪魔くさいようだけれど、このひと手間が、味わい深いお茶を飲むことにつながる。そしてこれは町家での生活全般にも共通する考え方だ。簡単便利、効率的という世間ではびこっている価値観のせいで失われた「何か」をたくさん含んでいる。まずは時々、急須でお茶を入れてみよう。(2023.1.24)